大学生の僕が、今伝えたい事。

『Do you know』をテーマに未来の鍵を見つけるブログ。

復興のトップランナー女川。


東日本大震災では、人知を超える高さ20mの津波が襲い、街の8割が壊滅し、人口の約8%にあたる827名の方が命を落とした。女川には原子力発電所もあり、当時は大変な混乱だった。しかし、今では復興のトップランナーと言われ、街の中心部には震災の後を感じさせないほどだ。今回は、様々な人から聞いた話を元に女川の事実と現地で感じた事を記事にした。

女川とは。

f:id:msjournalism:20171007215314j:image
石巻市から電車で約25分。電車は一日で十本しかない宮城県の東部に位置する。太平洋沿岸に立地する街、女川(おながわ)。街の84%が山地で、すぐ近くには海があり、海と山のコントラストが非常に綺麗な街。また、世界三大漁港である三陸 金華山仲があり、リアス式海岸になっている事に加え、山地が近くにある為直接、森のミネラルを含む山水が絶えず海水に流れ、混ざり、世界有数の植物プランクトンができる。その為、牡蠣、ホタテ、ほやなどプランクトンを食べて育つ魚類も多く取れる。

f:id:msjournalism:20171007220338j:image

朝日新聞社から引用)



そんな自然豊かな場所に津波が襲った。『女川は壊滅的。』と言われるほど被害は甚大だった。しかし、2017年9月8日に私が初めて女川に訪れた時にはこう思った。「ここは津波がきてないのか。こんな田舎にアウトレットモールのようなインスタ映えする街があるとは。」それほど、復興が進んでいた。

f:id:msjournalism:20171007215251j:image

どのように女川は復興したのか。
ここからの話は、2017年9月23日に宮城県女川町のNPO法人アスヘノキボウが京都市内で行った京都出張イベントで後藤大輝さんが話したことを中心に述べていく。このNPO法人は2013年4月に東日本大震災を機にリクルートを退社した小松洋介様が設立した。先日、お会いさせて頂いたのですが、お話しできなかった為、また12月13日に京都市内で説明会を行うのでその際に様々お伺いしたい。

f:id:msjournalism:20171007215353j:image

女川の復興の特徴は、『公民連携』復興は行政を中心に動くのが基本ですが、女川では民間を中心に動き始めた。震災の9日後の2011年3月20日に高橋正典さんが女川の被災状況を見て、行政は、物資の配給、瓦礫の撤去など『明日の命をいかに繋ぐか。』という短期的な事で精一杯になっている。だから、長期的にこれからの街づくりはどうして行くのか、そもそも街は自分たちが生活するためにある。じゃあ、俺たちの町は俺たちで守ろう。そう決意し、生き残った民間の社長方に『お前はここに残るのか。』という話をして、残る人たちを集めて復興連絡協議会の準備会を作った。そして、震災から一か月して女川町のほぼ全産業を集めた民間組織『女川町 復興連絡協議会』(FRK)をいち早く立ち上げた。目的は、暮らし、経済の観点から街のビジョンを決める事。
還暦以上は口を出すな。この会議で会長は『60代は口を出すな。50代は口を出してもいいが手を出すな。』と言ったそうです。街づくりには、10年20年と長い年月がかかる。それでは長期的な街づくりとしては良くない。今後、街を担う若者に任せよう。FRKと行政の協議では、「防波堤を作るかどうか」ではなく、「どうすれば町が早期復興するか。」であった。最初の頃は巨大防波堤を作るのはどうかとなったそうだが、これには八年かかるという事で早期に断念した。殆どの自治体が巨大防波堤を建てる。しかし、女川町は防波堤を作るハード面で完璧な防災を目指すのでなく、ソフト面での減災を目指した。女川の街は「津波が来たことに気づかなかった。」そう言う人もいた。巨大防波堤を作る事で100%津波から街を守れるとも限らない。

ここから全てが始まった。
ここに来ないと女川に来たとは言えない。現地の方に言われ行った『希望の鐘商店街』

f:id:msjournalism:20171007215443j:image

「えっ、何もない。」木造のコンテナ型の建物が静かに、でもどこか懐かしく並んでいた。ここは、震災後に宮城県女川高等学校のグラウンドに開設された仮設商店街である。

f:id:msjournalism:20171007215530j:image

希望の鐘は、震災前にはJR女川駅の駅前広場にあり、駅に汽車が到着するとそれをみんなに知らせるカラクリ時計台に4つ付いていた鐘の一つです。それも、震災で全て流されてしまいました。しかし、奇跡的に鐘の一つが音の出る状態で発見されました。この感動的な思いから、女川の復興のシンボルとして『希望の鐘』があります。

f:id:msjournalism:20171007215608j:image

そして、復興の始まりとなった商店街を女川の復興に「希望を与え、みんなに愛され、大事にしてもらう。」思いを込め『きぼうのかね商店街』と名付けた。

f:id:msjournalism:20171007215623j:image

ただ、この『きぼうのかね商店街』は来月で全てのテナントが撤去する。この商店街は震災後に出来た為、津波が来ない高台にある。OPEN当初はよく人が集まったが坂の上にある事から、年配の方が多い街ということもあり、足が遠のいていった。この場所は、どん底を経験した場所だが、人も集まらないため需要も無くなり、閉鎖の流れに。この場所にお店が無くなっても、人がいなくても、女川の復興を支えた商店街であることには今後も変わりない。
  
中学生が作った「いのちの石碑」

f:id:msjournalism:20171007215637j:image

f:id:msjournalism:20171007215947j:image


千年後の命を守るために
ここは津波が到達した地点です。
もし大きな地震が起きたら
この石碑より上へ逃げてください。
逃げない人がいてもここまで
無理矢理にでも連れ出してください
家に戻ろうとしている人がいれば
絶対に引き止めて下さい

女川中学校卒業生

これは、女川地域医療センターにある津波記憶石28号で、いのちの石碑に先立って作られた。一般社団法人全国優良石材店の会により設置され,碑文は「いのちの石碑プロジェクト」を進める女川中学校卒業生による言葉。いのちの石碑は現在、女川町に六基ある。女川町内全21か所の浜の津波到達地点に石碑を建立する為、中学校を卒業した今でも活動しているそうです。

女川の魅力

f:id:msjournalism:20171007215701j:image
『街が小さな家族。』そんな素敵な街でした。女川には、インターンで来てる同世代の人も多くいて、都会のようにすれ違う人は他人ではなく、自然と挨拶して会話が始まるそんな体験をしました。地元の方は、明るい人が多くて、でもしっかり話すと想像つかない経験してたり、強さを感じました。


滞在した三日間とも全く知らない人と飲み会をして、ドライブをして、本当に楽しい素敵な人達が集まる街でした。僕自身が人生に迷っている事を公言したから、周りの人が助けてくれたのかなと思うと、人生迷って良かったとも思います。人と人の繋がりの面白さを感じました。将来は、人と人の繋がる暖かい場を作れれば楽しいだろうなとヒントをもらいました。

f:id:msjournalism:20171007220136j:image
人生一歩前進したら、また東北もちろん女川にも戻ります。また行きたい、そう思える素敵な街です。卒業間近の四年生には、時間あるうちに一度行ってほしい。一人でも多くの人が現地へ行ってくれることが僕の一つの願いであり、この活動の大きな意義です。

f:id:msjournalism:20171007220109j:image