大学生の僕が、今伝えたい事。

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生まれ育ったふるさとを残したい。教師を辞め、cafe経営の道へ。

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 石巻市牡鹿半島の蛤浜に位置するCaféはまぐり堂。蛤浜がある牡鹿半島荻浜地区には12集落あり、震災前に601人いた人口が202人になり、66.4%の人口減少率という大きな課題を抱える。ここ蛤浜は2世帯5人でその内4人が60代以上の超高齢化集落。地方の課題を20年先取りする。

 

石巻駅から宮城交通バスで約40分。緑豊かな山々に囲まれたバス停に到着すると目の前には、お洒落なツリーハウスがお出迎えをし、階段を下ると視界には青く穏やかな海が広がる非常に自然豊かな場所に、はまぐり堂はある。『生まれ育ったふるさとを残したい。』この想いから始まった蛤浜再生プロジェクト。その一環として、Caféはまぐり堂がある。          

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 今回は、一般社団法人はまのね Caféはまぐり堂代表理事の亀山 貴一さんにお話を伺った。教師を辞め、故郷を残したい思いから全く経験のないCafé経営をするいばらの道を行くストーリーを伝えたい。

亀山さんについて
 亀山さんは、石巻市蛤浜出身。昭和57年3月7日生まれ。祖父が漁師だった影響もあり、幼い時から漁師に憧れていた。しかし、亀山さんが幼い頃には、すでに漁師では食っていけないと言われていた。祖父の時代に魚を取りすぎて年々収穫量が減っていったこと、排他的経済水域が祖父の時代の途中からでき、容易に獲ることできなくなったからだ。だから、「昔のように魚がたくさん取れる海に戻したい。」この想いから、魚の研究者を目指し宮崎大学農学部生物環境学科、石巻専修大学理工学研究科に進学した。その後、母校である宮城県水産高校の教師になった。

 

 高校では、柔道部の顧問を担当した。亀山さんは柔道の経験は全くなかった。普通の先生なら、突っ立って見ているだけだが亀山さんは違った。柔道部の生徒と混ざり練習をし、何度も生徒に投げられた。まずは、先生自身が諦めない姿や必死に取り組む姿勢を生徒に見せていかないといけない、それを実際に体現した。教師の頃から、全く触れたことない分野にでも、挑戦する姿勢があった。

生まれ育ったふるさとを残したい

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 そして、震災が起きた。蛤浜は震源地から一番近い地区だった。その為、被害も甚大で災害危険区域に指定された。災害危険区域とは、建築基準法第39法に基づき津波等の自然災害から市民の生命を守るために居住の用に共する建築物の建築を制限する区域です。建築制限とは、住宅、アパート、ホテル、民宿、児童福祉施設、医療施設などの居住の用に共する建築物の建築ができない。(石巻市HPより引用)
 つまり、災害危険区域に指定されてしまうとその地域には居住の為の新たな新築などが出来なくなる。

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震災直後、一年以内は亀山さん自身の生活と学校の立て直しで精一杯だったそうです。蛤浜は震災前に9世帯あったが、震災後、2世帯になっていた。故郷をこのまま無くしてはいけない思いから、蛤浜再生プロジェクトを始めた。蛤浜再生プロジェクトとは、持続可能な浜をつくる事を目的とする。暮らし、産業、学びの3つの面からこれらを成し遂げる。以下に、亀山さんが最初に描いた構想図を載せています。

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金は無いけど体はある
 当初は、震災で集まった義援金などを使ってできればと思っていたそうだ。しかし、50.60代のNPO,行政の方からは、「そんな田舎にCafé作って誰が来るのか。仲間もいないだろ。」そんな厳しい言葉をぶつけられた。しかし、そんな計画を後押したのが、同世代の人だった。「それ面白いね。俺ら金はないけど体はあるから。」全国からおよそ1000人以上の人がボランティアとして来てくれた。このボランティアメンバーには、関西の方が多くいたそうだ。1995年の阪神淡路大震災では中学生や高校生で何も出来なかったから、今度は自分たちが被災地を助けたい思いだった。ボランティアの方は一年以上現地にいてくれアルバイトをして生活費を稼ぎつつ、瓦礫の撤去などの手伝いをしてくれた。「自分だったらできない」亀山さん自身もそう仰るほど精力的な支えがあった。
 

瓦礫の撤去などを終えた後に、最初に書いたスケッチを取り出した。まずは、財源が乏しく全てをできる余裕は無かった為に、人が集まる場として、Caféを作ろうと思った。そして、再び様々な寄付金や助成金の申請を出すも全て落とされた。普通の人ならば、お金もないしここで諦めるかもしれない。しかし、亀山さんは違った。『やると決めたからにはやる。』そう心に誓い、この目的を成し遂げるためのありとあらゆる方法を模索した。そして、費用が最小限に収まるように、築100年の自分の民家をDIYで改装してCaféにした。

無事OPEN

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 そして、2013年3月に無事Caféはまぐり堂OPEN。これと同時に亀山さんも辞めるつもりは無かった教師も辞めた。ここが人生の一つのターニングポイントだったと言う。多くの人が応援してくれてるから中途半端な事は出来ないと思い決断。また、受け持っていた三年生が卒業するタイミングでもあった。ただ、その時にはCaféのアルバイトの経験も無ければ、飲食店経営などもちろんない。ノウハウゼロの状態から始まった。「やると決めたからにはやる。」本気でやれば誰かが助けてくれる。一緒に瓦礫撤去をしてきた元教員、料理人、パン職人、クレーンオペレーターの4人体制ではまぐり堂が始まった。

 

OPEN当初から、お洒落なCaféがあると話題になり一年間でおよそ15000人が来店。亀山さんは、蛤浜には絶対に自信があったという。その根拠は『空気感』と言う。確かに、蛤浜は海と山が綺麗に共存する美しい場所。ただ、それ以上に何か言葉では説明出来ない雰囲気があった。もしかしたら、行った人にしか分からない感覚なのかもしれない。

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大盛況の裏での地域との軋轢
 しかし、Caféが大盛況な中、地域の方からこんな声が上がった。「人が集まりすぎてうるさい。まさか、こうなると思わなかった。」もともとは地域のために始めた事業。これが逆に地域との軋轢になった。そこで、メディアへの露出、団体の受け入れを辞めた。現在も、テレビをはじめとするメディアには出ていない。普通のビジネスであれば、絶対にこのような事はしないだろう。『地域の人に喜んで欲しくて始めた事業だから。』蛤浜の持つ空気感を守りながら、事業として成り立たせていく。今まではスピード感持って事業展開しただけにしっかり足元見て丁寧に事業展開する。

 

また、はまぐり堂では続々に新たな取り組みをする。その一つが六次産業化。自分たちで生産、加工、販売まで一括でする事。例えば、震災後、鹿が増えて問題になった。はまぐり堂では猟師が獲った鹿を仕入れ、鹿肉カレーや鹿の缶詰として販売している。ハンターの数はピーク時の5分の1になり、高齢化している。そこで、スタッフは狩猟免許を取得した。今後増えすぎて困った鹿を自ら狩猟し、生かしていきたい。また、他の食材も地元の物を多く使っている。三方良しの考え方を大切にして、価格決定権の無い生産者を守り、極端な値引きはせず、正当な価格で取引をしている。
 

他にも震災後、再び海に親しんでほしいとの思いを込め、SUPやカヌーなどの体験型アクティビティーも提供している。女川で出逢った先輩も「今でも海が嫌いな人は多くいる」そう言っていた。このような人が海を好きになる事は簡単ではないが、海に入る一つの機会には最適かもしれない。
取材を終えて。

 メディアは断ってるにも関わらず対応して頂いて本当に感謝しています。亀山さんは、本当に熱い方で話すだけで純粋に楽しかったですし、とても尊敬しました。本を読んで、色々知ったつもりで行きましたが現地に行って、見て、聞いて、話して、感じる、と全然違いました。現地へ行って生を体感する事の大切さを改めて実感しました。亀山さんは常々、『とりあえずやってみろ。』そう言っていました。考えて理想論を語るのは誰でもできる。Caféも経営も未経験で始めた亀山さんだからこそ、響く言葉でした。

 

 人生に迷う大学生として、はまぐり堂で働く社員の方々ともお話させて頂きました。広告代理店に勤めていた方、夢である重機の仕事を辞めて来た方、など本当に様々でした。生き方って多種多様だなと改めて思いました。
 亀山さんや周りの方々は、関西から来て初対面の僕に対して人生のヒントが見つかるように、夜のインターン生との飲み会に招待してくれ、この人に会ったらいいよと紹介してくださり(行った日がまさかの定休日だった。。)、土日漁でも行きなよ。と色んな人にアポ取ってくださり、本当に感謝しかありません。

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 最後、車で居酒屋まで送って頂き、降りる時に『頑張ってください。また来て。』と握手をした時に、人生決めてカッコよくなってまたここに戻ってくると決意しました。
ここに記載できた事は、ほんの一部ですが以上で終わりになります。

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