大学生の僕が、今伝えたい事。

『Do you know』をテーマに未来の鍵を見つけるブログ。

お前らはバカにしにきたのか。

震災報道や震災での各人の対応に対して、被災された方が思っている事の一部を紹介します。ただ、これが全ての方の意見ではないという点をご了承の上お読み下さい。 f:id:msjournalism:20171009222531j:image

・第一章
「復興が進む町」、テレビやニュースでは喜ばしく伝えられ、耳にする言葉ではないだろうか。しかし、実際に被災を経験して、苦しみを感じる当事者が発信するものではない。あくまでも、メディアが被災地へ行き、当事者以外の何者かが情報を伝える。私もその一人にすぎない。
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・第二章
ここからは、少し内容が過激と思われるかもし
れませんが、真実を自分の言葉で伝えます。「報道で伝えられているは、上辺だけ。」これはメディアを批判している訳では無いです。お話を聞いた方は、震災前から女川にいたので、震災後の女川の人達の苦しみがよく分かる。そうおっしゃていました。だから、メディアやSNS等で伝わる情報に違和感を感じている。嬉しい事に、震災後に多くの人が女川を支援するために来てくれたけれども、地元の人しか分からない苦しみがあると言っていました。コンビニもスーパーも車も家も何もかも失った。そんな苦しみを多くの人はメディアには語らない。信頼関係のない人に自分の苦しみを話すのは確かに難しい。だから、震災報道での情報とリアルには大きく差がある。「復興が進む町」と言われたりするが、心からそう思えている人はどれだけいるだろうか。報道ではよく震災直後の写真と現在の写真を振り返って「凄いね。良かったね。」と言われるけれども、良くはない。大切なのはそこでない。

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その二枚の写真の間にどんな苦労があったのか、どんな思いだったのかの『リアル』を聞かないといけない、伝えないといけない。だから、被災地に行って、実際に体験した人に話を聞いたうえで情報発信をして欲しい。情報とリアルには差があるからこそ、リアルを発信してほしい。
ただ、実際に体験した人の話を聞くのは難しい。先ほど、言ったように信頼関係を築かない事には本音は語ってくれない。悪気なく被災地に行っただけで、『お前らはバカにしに来たのか』そう思っている方もいる事も事実です。だから、過去の一時点だけの情報を切り取り、知ったふりで上から目線で接してはならない。情報とリアルには大きな乖離がある事を理解しなければならない。

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・第三章
人それぞれ、伝え方や感じ方は違う。SNSで気軽に情報発信できる時代になったからこそ、気をつけなければならない。何気なく書いた文章が自分の思い込みで、全くリアルと乖離しているかもしれない。 この記事を読んだ方には、一度東北へ行って、生活して、現地の方の話を聞いて欲しい。私自身は、実際にリアルを体験した人から何度も話を聞いてこの記事を書きました。この記事の内容に不快感を示された方がいたら申し訳ないです。しかし、ここに書いたことに嘘偽りはありません。ただ、この記事を読んだだけではまだ『情報』です。リアルは自分で現地へ行って、感じて、話を聞いて自分自身の肌で確かめてほしいです。そして、リアルを伝えてほしい。

復興のトップランナー女川。


東日本大震災では、人知を超える高さ20mの津波が襲い、街の8割が壊滅し、人口の約8%にあたる827名の方が命を落とした。女川には原子力発電所もあり、当時は大変な混乱だった。しかし、今では復興のトップランナーと言われ、街の中心部には震災の後を感じさせないほどだ。今回は、様々な人から聞いた話を元に女川の事実と現地で感じた事を記事にした。

女川とは。

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石巻市から電車で約25分。電車は一日で十本しかない宮城県の東部に位置する。太平洋沿岸に立地する街、女川(おながわ)。街の84%が山地で、すぐ近くには海があり、海と山のコントラストが非常に綺麗な街。また、世界三大漁港である三陸 金華山仲があり、リアス式海岸になっている事に加え、山地が近くにある為直接、森のミネラルを含む山水が絶えず海水に流れ、混ざり、世界有数の植物プランクトンができる。その為、牡蠣、ホタテ、ほやなどプランクトンを食べて育つ魚類も多く取れる。

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朝日新聞社から引用)



そんな自然豊かな場所に津波が襲った。『女川は壊滅的。』と言われるほど被害は甚大だった。しかし、2017年9月8日に私が初めて女川に訪れた時にはこう思った。「ここは津波がきてないのか。こんな田舎にアウトレットモールのようなインスタ映えする街があるとは。」それほど、復興が進んでいた。

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どのように女川は復興したのか。
ここからの話は、2017年9月23日に宮城県女川町のNPO法人アスヘノキボウが京都市内で行った京都出張イベントで後藤大輝さんが話したことを中心に述べていく。このNPO法人は2013年4月に東日本大震災を機にリクルートを退社した小松洋介様が設立した。先日、お会いさせて頂いたのですが、お話しできなかった為、また12月13日に京都市内で説明会を行うのでその際に様々お伺いしたい。

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女川の復興の特徴は、『公民連携』復興は行政を中心に動くのが基本ですが、女川では民間を中心に動き始めた。震災の9日後の2011年3月20日に高橋正典さんが女川の被災状況を見て、行政は、物資の配給、瓦礫の撤去など『明日の命をいかに繋ぐか。』という短期的な事で精一杯になっている。だから、長期的にこれからの街づくりはどうして行くのか、そもそも街は自分たちが生活するためにある。じゃあ、俺たちの町は俺たちで守ろう。そう決意し、生き残った民間の社長方に『お前はここに残るのか。』という話をして、残る人たちを集めて復興連絡協議会の準備会を作った。そして、震災から一か月して女川町のほぼ全産業を集めた民間組織『女川町 復興連絡協議会』(FRK)をいち早く立ち上げた。目的は、暮らし、経済の観点から街のビジョンを決める事。
還暦以上は口を出すな。この会議で会長は『60代は口を出すな。50代は口を出してもいいが手を出すな。』と言ったそうです。街づくりには、10年20年と長い年月がかかる。それでは長期的な街づくりとしては良くない。今後、街を担う若者に任せよう。FRKと行政の協議では、「防波堤を作るかどうか」ではなく、「どうすれば町が早期復興するか。」であった。最初の頃は巨大防波堤を作るのはどうかとなったそうだが、これには八年かかるという事で早期に断念した。殆どの自治体が巨大防波堤を建てる。しかし、女川町は防波堤を作るハード面で完璧な防災を目指すのでなく、ソフト面での減災を目指した。女川の街は「津波が来たことに気づかなかった。」そう言う人もいた。巨大防波堤を作る事で100%津波から街を守れるとも限らない。

ここから全てが始まった。
ここに来ないと女川に来たとは言えない。現地の方に言われ行った『希望の鐘商店街』

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「えっ、何もない。」木造のコンテナ型の建物が静かに、でもどこか懐かしく並んでいた。ここは、震災後に宮城県女川高等学校のグラウンドに開設された仮設商店街である。

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希望の鐘は、震災前にはJR女川駅の駅前広場にあり、駅に汽車が到着するとそれをみんなに知らせるカラクリ時計台に4つ付いていた鐘の一つです。それも、震災で全て流されてしまいました。しかし、奇跡的に鐘の一つが音の出る状態で発見されました。この感動的な思いから、女川の復興のシンボルとして『希望の鐘』があります。

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そして、復興の始まりとなった商店街を女川の復興に「希望を与え、みんなに愛され、大事にしてもらう。」思いを込め『きぼうのかね商店街』と名付けた。

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ただ、この『きぼうのかね商店街』は来月で全てのテナントが撤去する。この商店街は震災後に出来た為、津波が来ない高台にある。OPEN当初はよく人が集まったが坂の上にある事から、年配の方が多い街ということもあり、足が遠のいていった。この場所は、どん底を経験した場所だが、人も集まらないため需要も無くなり、閉鎖の流れに。この場所にお店が無くなっても、人がいなくても、女川の復興を支えた商店街であることには今後も変わりない。
  
中学生が作った「いのちの石碑」

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千年後の命を守るために
ここは津波が到達した地点です。
もし大きな地震が起きたら
この石碑より上へ逃げてください。
逃げない人がいてもここまで
無理矢理にでも連れ出してください
家に戻ろうとしている人がいれば
絶対に引き止めて下さい

女川中学校卒業生

これは、女川地域医療センターにある津波記憶石28号で、いのちの石碑に先立って作られた。一般社団法人全国優良石材店の会により設置され,碑文は「いのちの石碑プロジェクト」を進める女川中学校卒業生による言葉。いのちの石碑は現在、女川町に六基ある。女川町内全21か所の浜の津波到達地点に石碑を建立する為、中学校を卒業した今でも活動しているそうです。

女川の魅力

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『街が小さな家族。』そんな素敵な街でした。女川には、インターンで来てる同世代の人も多くいて、都会のようにすれ違う人は他人ではなく、自然と挨拶して会話が始まるそんな体験をしました。地元の方は、明るい人が多くて、でもしっかり話すと想像つかない経験してたり、強さを感じました。


滞在した三日間とも全く知らない人と飲み会をして、ドライブをして、本当に楽しい素敵な人達が集まる街でした。僕自身が人生に迷っている事を公言したから、周りの人が助けてくれたのかなと思うと、人生迷って良かったとも思います。人と人の繋がりの面白さを感じました。将来は、人と人の繋がる暖かい場を作れれば楽しいだろうなとヒントをもらいました。

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人生一歩前進したら、また東北もちろん女川にも戻ります。また行きたい、そう思える素敵な街です。卒業間近の四年生には、時間あるうちに一度行ってほしい。一人でも多くの人が現地へ行ってくれることが僕の一つの願いであり、この活動の大きな意義です。

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食を応援して、東北を元気にしたい。

 仙台市の奥座敷として知られる秋保温泉郷にある仙台秋保醸造所、通称『秋保ワイナリー』。

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 秋保ワイナリーは、2014年3月に設立し、2015年2月にオープンした。当時は県内唯一のワイナリー。(現在は宮城県内では2ヶ所、2020年までに5ヶ所になる予定。)

 

 2haの自社農園を持ち、黒グレーを基調としたモダンな建物で、お洒落な空間にはcafeスペースとワインの販売を行っている。

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 この秋保ワイナリーの代表取締役 毛利 親房様にお話をお伺いした。開口一番、毛利さんは『東北を元気にしたい。ワインはその手段だ。』そう言い切った。そんな毛利さんの熱い想いの裏にあるストーリーをお伝えしたい。

 

復興の為に手助けしたい
 毛利さんは7才までを父の仕事の関係でアメリカで過ごし、帰国後仙台の小学校に2年生から5年生の2学期まで通い、以後高校生までを山口県、東京の大学へ進学し、東京で就職し14年前大手設計事務所に転職した。 毛利さんにとって、幼いころは東北には縁はあったが、特別に強い想いはなかったそうだ。しかし、転職した設計事務所が東北発祥だった影響もあり、勤務地が仙台になりJR女川駅に併設する温泉、『ゆぽっぽ』の設計担当をしていた。

 

 そんな時に、東日本大震災が起きた。毛利さんは東北六県の管轄、営業から全てを担当し、震災担当として被災状況の確認や被災地調査を推し進めてきました。
毛利さん自身も震災直後、仲間と共に被災現場へ行った。行き道は、歓談する余裕があったが、被災現場を見た帰りは、皆が無言で帰り、被害が特に甚大だった大川小学校にはとてもではないけれども、行く精神的体力がなかった。震災による瓦礫の山頂の光景は、今でも忘れられなく、報道にない現実がそこにはあった。だからこそ、『復興の為に何か手助けをしたい。』 理屈ではなく、心が自然とそう思えたそうだ。

 

ワイナリーとの出会い

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 それから、復興会議に参加するようになり、農家や漁師、学生、広告代理店、行政などこれまで出会わなかった方と出会った。そして会議では、ワイン生産の話が出た。しかし、山元町に唯一あったワイナリーは津波で流され、社長の方も亡くなり後継者もいなかった。また、ぶどうの生産が全国44位の宮城県。そのため誰も、やろうとしなかった。その会議で、農家さん、漁師さんの被害状況を知った。元々、三陸金華山沖は世界三大漁港と呼ばれ日本一豊富な漁場です。

 

 しかし、震災以後、漁獲量が減りまた風評被害にも苦しんでいた。そんな方達の話を聞き毛利さんは、『ワイナリーを作って地元の食を応援しよう』とアイデアを出した。ワインであれば食材とのマリアージュは非常に合うし、造ったワインが売れる事でマリアージュする地元の食材も売れる。ワインであれば、農家さんや漁師さんを少しでも手助けできるかもしれない。
 

会議が終わった後、牡蠣漁師の方が毛利さんの所へやって来て、『今日は久しぶりにワクワクした。俺達も頑張るからあんたも頑張ってくれ』
この一言が毛利さんの背中を強く押した。

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全ての不安を吹き飛ばした一言。
 しかし、毛利さんはお酒も付き合い程度でワインの知識も殆ど無かった。その為、サラリーマンをしながら、夜行バスで山形のワイナリーに行き泊まりで仕込みを勉強し、海外のワインリサーチも始めた。経験を重ね、調べを続ける事でワイナリーの成功への疑いが徐々に確信に変わっていった。

 

 ただ、毛利さんには3人の家族がいた。サラリーマンを辞めて起業する事に躊躇いもあった。ワイナリーをやろうとしても、周囲から反対され、精神的にも落ち込んでいた。もうワイナリーを諦めよう、そう思った時、奥様からまさかの一言が返ってきた。
『ここまできたらとことんやりなさい。事業に失敗して家が無くなっても実家に住んだらいいし、家族4人いたら何とかなる。』
当時、奥様のお腹には二人目の子どもを授かっていた。奥様からの意外な叱咤激励を受け、奥様の強さを毛利さんは強く強く実感すると同時に、全ての不安が吹き飛ばされた。

たくさんの人に応援してもらった。まだ恩返し出来てない。
 このワイナリーを創設するのには、沢山の人の支えがあったと毛利さんは言う。 三菱商事の方は、毎年毎年ボランティアとしてワイナリー建設を資金面からも支えてくれ、一般のボランティアの方は述べ400人以上は来てくれたそうです。そんな多くの人の想いが込められ出来たワイナリーだからこそ、多くの人に恩返したいと毛利さんは強く言う。

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 以前あった秋保ワイナリーのシードルの試飲会の時に、原料のりんごを生産した方が凄く喜んでくれたそうです。「今までは、りんごをそのまま売るだけだったけれども、こんなにも美味しいワインになって、多くの人に色んな所で自分が作ったりんごを楽しんでくれて嬉しい。」 農家さんや漁師さんを手助けしたく始めた事業。この一言の喜びは言葉で表現出来ないほどだろう。人が喜んでくれる姿を見る事が嬉しいと幾度となく言っていた毛利さん。大きい家に住むや大富豪になる事が目標ではなく、ただただ多くの人に恩返しをしたい、喜んでもらいたい。そして何よりも東北を元気にしたい。毛利さんの強い願い、夢は今もどこかで叶っているのかもしれない。

 

被災地だからでは通用しない。
  最近、新たなプロジェクトが始まった。それが『テロワージュ宮城』
テロワール(terroir) →気候、風土と人の営み
マリアージュ(marriage) →食とお酒のマッチング
この二つを組み合わせた造語。つまり、現地の旬な美味しい食材とお酒のマッチングを紹介する食を応援するプロジェクト。
農家さんや漁師さんを手助けしたい思いから始まったワイナリー事業だからこそ、農家さんや漁師さんとのコラボにこだわった。
例えば、多くの人が旅行に行って悩むのが食事。せっかく、○○に来たら○○にしかない食べ物を食べたい。そう思うけど、いざインターネットで調べると出てくるのはチェーン店だったり、信じていいのか分からないまとめサイト。この旅行での食事を最適化してくれるのが『テロワージュ宮城。』このサイトには、地元の食材しか載っていない。そして、この食材にはこのワイン、お酒が合うと写真付きで載っている。そして大切なのはここからです。このサイトでは、この食材、お酒がどうやって作られたかのストーリーが紹介されてます。
例えば、『この牡蠣をとった漁師さんはこんな想いで~』のような形です。生産者の想い、食のストーリーが分かって食べると美味しさが全く違いますよね。
 

 被災地があるから東北に行こうでは、長期的な目線では上手くいかない。宮城県には『食』という大きな武器がある。『美味しい食材と美味しいお酒があるから宮城に行こう。』ここを目指してこのプロジェクトを現在進めている。

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ただ、被災地支援は継続していかないといけない。秋保ワイナリーではシードルの売上の一部を、「特定非営利活動法人STORIA」、「公益社団法人チャンスフォーチルドレン」へ寄付をしている。この目的は、震災で両親を亡くした子どもたちを支援したい想いからだ。
長期的な被災地支援も欠かすことなく続け、新たなプロジェクトを始め、『今が一番楽しい。』そう仰る毛利さんを見て、これからの宮城県がさらに魅力的な街になりそうな予感がした。

取材を終えて。

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 今回、この取材を通して毛利さんの熱い想いに非常に心打たれました。ただ、熱さの中に暖かさ、優しいさも感じました。この記事で紹介できた事は、秋保ワイナリーの歴史の中でもほんの一部です。実際に現地へ行って、見て、聞いて、匂って、雰囲気を感じないと分からない事も多くあります。秋保ワイナリーのワインは基本的にネット販売をやっていません。現地で飲むからこそ価値がある。もし、機会あれば是非秋保ワイナリーに皆さん行ってみてください。
Caféで飲める葡萄ジュースがおすすめです。また、夏になるとグランピングするかもしれないので、行きたい方はFacebookを要チェックです。

 

生まれ育ったふるさとを残したい。教師を辞め、cafe経営の道へ。

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 石巻市牡鹿半島の蛤浜に位置するCaféはまぐり堂。蛤浜がある牡鹿半島荻浜地区には12集落あり、震災前に601人いた人口が202人になり、66.4%の人口減少率という大きな課題を抱える。ここ蛤浜は2世帯5人でその内4人が60代以上の超高齢化集落。地方の課題を20年先取りする。

 

石巻駅から宮城交通バスで約40分。緑豊かな山々に囲まれたバス停に到着すると目の前には、お洒落なツリーハウスがお出迎えをし、階段を下ると視界には青く穏やかな海が広がる非常に自然豊かな場所に、はまぐり堂はある。『生まれ育ったふるさとを残したい。』この想いから始まった蛤浜再生プロジェクト。その一環として、Caféはまぐり堂がある。          

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 今回は、一般社団法人はまのね Caféはまぐり堂代表理事の亀山 貴一さんにお話を伺った。教師を辞め、故郷を残したい思いから全く経験のないCafé経営をするいばらの道を行くストーリーを伝えたい。

亀山さんについて
 亀山さんは、石巻市蛤浜出身。昭和57年3月7日生まれ。祖父が漁師だった影響もあり、幼い時から漁師に憧れていた。しかし、亀山さんが幼い頃には、すでに漁師では食っていけないと言われていた。祖父の時代に魚を取りすぎて年々収穫量が減っていったこと、排他的経済水域が祖父の時代の途中からでき、容易に獲ることできなくなったからだ。だから、「昔のように魚がたくさん取れる海に戻したい。」この想いから、魚の研究者を目指し宮崎大学農学部生物環境学科、石巻専修大学理工学研究科に進学した。その後、母校である宮城県水産高校の教師になった。

 

 高校では、柔道部の顧問を担当した。亀山さんは柔道の経験は全くなかった。普通の先生なら、突っ立って見ているだけだが亀山さんは違った。柔道部の生徒と混ざり練習をし、何度も生徒に投げられた。まずは、先生自身が諦めない姿や必死に取り組む姿勢を生徒に見せていかないといけない、それを実際に体現した。教師の頃から、全く触れたことない分野にでも、挑戦する姿勢があった。

生まれ育ったふるさとを残したい

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 そして、震災が起きた。蛤浜は震源地から一番近い地区だった。その為、被害も甚大で災害危険区域に指定された。災害危険区域とは、建築基準法第39法に基づき津波等の自然災害から市民の生命を守るために居住の用に共する建築物の建築を制限する区域です。建築制限とは、住宅、アパート、ホテル、民宿、児童福祉施設、医療施設などの居住の用に共する建築物の建築ができない。(石巻市HPより引用)
 つまり、災害危険区域に指定されてしまうとその地域には居住の為の新たな新築などが出来なくなる。

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震災直後、一年以内は亀山さん自身の生活と学校の立て直しで精一杯だったそうです。蛤浜は震災前に9世帯あったが、震災後、2世帯になっていた。故郷をこのまま無くしてはいけない思いから、蛤浜再生プロジェクトを始めた。蛤浜再生プロジェクトとは、持続可能な浜をつくる事を目的とする。暮らし、産業、学びの3つの面からこれらを成し遂げる。以下に、亀山さんが最初に描いた構想図を載せています。

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金は無いけど体はある
 当初は、震災で集まった義援金などを使ってできればと思っていたそうだ。しかし、50.60代のNPO,行政の方からは、「そんな田舎にCafé作って誰が来るのか。仲間もいないだろ。」そんな厳しい言葉をぶつけられた。しかし、そんな計画を後押したのが、同世代の人だった。「それ面白いね。俺ら金はないけど体はあるから。」全国からおよそ1000人以上の人がボランティアとして来てくれた。このボランティアメンバーには、関西の方が多くいたそうだ。1995年の阪神淡路大震災では中学生や高校生で何も出来なかったから、今度は自分たちが被災地を助けたい思いだった。ボランティアの方は一年以上現地にいてくれアルバイトをして生活費を稼ぎつつ、瓦礫の撤去などの手伝いをしてくれた。「自分だったらできない」亀山さん自身もそう仰るほど精力的な支えがあった。
 

瓦礫の撤去などを終えた後に、最初に書いたスケッチを取り出した。まずは、財源が乏しく全てをできる余裕は無かった為に、人が集まる場として、Caféを作ろうと思った。そして、再び様々な寄付金や助成金の申請を出すも全て落とされた。普通の人ならば、お金もないしここで諦めるかもしれない。しかし、亀山さんは違った。『やると決めたからにはやる。』そう心に誓い、この目的を成し遂げるためのありとあらゆる方法を模索した。そして、費用が最小限に収まるように、築100年の自分の民家をDIYで改装してCaféにした。

無事OPEN

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 そして、2013年3月に無事Caféはまぐり堂OPEN。これと同時に亀山さんも辞めるつもりは無かった教師も辞めた。ここが人生の一つのターニングポイントだったと言う。多くの人が応援してくれてるから中途半端な事は出来ないと思い決断。また、受け持っていた三年生が卒業するタイミングでもあった。ただ、その時にはCaféのアルバイトの経験も無ければ、飲食店経営などもちろんない。ノウハウゼロの状態から始まった。「やると決めたからにはやる。」本気でやれば誰かが助けてくれる。一緒に瓦礫撤去をしてきた元教員、料理人、パン職人、クレーンオペレーターの4人体制ではまぐり堂が始まった。

 

OPEN当初から、お洒落なCaféがあると話題になり一年間でおよそ15000人が来店。亀山さんは、蛤浜には絶対に自信があったという。その根拠は『空気感』と言う。確かに、蛤浜は海と山が綺麗に共存する美しい場所。ただ、それ以上に何か言葉では説明出来ない雰囲気があった。もしかしたら、行った人にしか分からない感覚なのかもしれない。

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大盛況の裏での地域との軋轢
 しかし、Caféが大盛況な中、地域の方からこんな声が上がった。「人が集まりすぎてうるさい。まさか、こうなると思わなかった。」もともとは地域のために始めた事業。これが逆に地域との軋轢になった。そこで、メディアへの露出、団体の受け入れを辞めた。現在も、テレビをはじめとするメディアには出ていない。普通のビジネスであれば、絶対にこのような事はしないだろう。『地域の人に喜んで欲しくて始めた事業だから。』蛤浜の持つ空気感を守りながら、事業として成り立たせていく。今まではスピード感持って事業展開しただけにしっかり足元見て丁寧に事業展開する。

 

また、はまぐり堂では続々に新たな取り組みをする。その一つが六次産業化。自分たちで生産、加工、販売まで一括でする事。例えば、震災後、鹿が増えて問題になった。はまぐり堂では猟師が獲った鹿を仕入れ、鹿肉カレーや鹿の缶詰として販売している。ハンターの数はピーク時の5分の1になり、高齢化している。そこで、スタッフは狩猟免許を取得した。今後増えすぎて困った鹿を自ら狩猟し、生かしていきたい。また、他の食材も地元の物を多く使っている。三方良しの考え方を大切にして、価格決定権の無い生産者を守り、極端な値引きはせず、正当な価格で取引をしている。
 

他にも震災後、再び海に親しんでほしいとの思いを込め、SUPやカヌーなどの体験型アクティビティーも提供している。女川で出逢った先輩も「今でも海が嫌いな人は多くいる」そう言っていた。このような人が海を好きになる事は簡単ではないが、海に入る一つの機会には最適かもしれない。
取材を終えて。

 メディアは断ってるにも関わらず対応して頂いて本当に感謝しています。亀山さんは、本当に熱い方で話すだけで純粋に楽しかったですし、とても尊敬しました。本を読んで、色々知ったつもりで行きましたが現地に行って、見て、聞いて、話して、感じる、と全然違いました。現地へ行って生を体感する事の大切さを改めて実感しました。亀山さんは常々、『とりあえずやってみろ。』そう言っていました。考えて理想論を語るのは誰でもできる。Caféも経営も未経験で始めた亀山さんだからこそ、響く言葉でした。

 

 人生に迷う大学生として、はまぐり堂で働く社員の方々ともお話させて頂きました。広告代理店に勤めていた方、夢である重機の仕事を辞めて来た方、など本当に様々でした。生き方って多種多様だなと改めて思いました。
 亀山さんや周りの方々は、関西から来て初対面の僕に対して人生のヒントが見つかるように、夜のインターン生との飲み会に招待してくれ、この人に会ったらいいよと紹介してくださり(行った日がまさかの定休日だった。。)、土日漁でも行きなよ。と色んな人にアポ取ってくださり、本当に感謝しかありません。

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 最後、車で居酒屋まで送って頂き、降りる時に『頑張ってください。また来て。』と握手をした時に、人生決めてカッコよくなってまたここに戻ってくると決意しました。
ここに記載できた事は、ほんの一部ですが以上で終わりになります。

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このブログの開設理由。

 

このブログを開設したきっかけは、一冊の書籍からでした。

 

ダイヤモンド社出版の『ハーバードはなぜ日本の東北で学ぶのか』

 

この本には、東日本大震災後に復興の為に起業して日々奮闘する方々が取り上げられています。僕は純粋に、『カッコイイな。こんな人になりたい。』そう思いました。

 

そして、大学三年生の秋頃から就職活動を始めました。僕には、高校生の時から憧れ行きたい企業がありました。この企業に入る為に関西の大学を選んだほどです。もちろん、大学生活もこの企業に入る為の努力を続けました。しかし、結果は残念ながらー。

 

それ以降、この企業に入る為に燃やしてた熱をどこに向けたら良いのか分からなくなりました。失った時に初めて、僕にはこの企業こそが、全ての頑張る糧になっていたことに気づきました。

 

そして、どんどん自分を見失っていき就職活動を途中で中断しました。甘えかもしれないけれど、一度立ち止まって考えようと思いました。

 

この時に、ふと以前読んだ本を読み返しました。その本が上記で紹介した本です。そこで紹介される人を改めて見て、『この人達に会う事で、何か人生のヒントが見つかるかもしれない。』

 

そう思い、メールやメッセンジャーを駆使して取材のお願いをしました。ありがたい事に、3社の創設者の方に現地でお話をお伺い出来ました。

 

僕は、三名の方には何も与えることが出来ませんでした。しかし、皆様僕の人生のヒントが見つかるよう、貴重なお時間を割いてお話をして下さり、たくさんの方々を紹介して下さり、本当に本当に感謝しかありません。

 

ここで僕は幾多の人生のヒントを見つけました。これほど素晴らしい話、経験を自分だけで留めておくのは勿体ない。

 

『もしかしたら、他の人が僕と同じように人生迷った時に少しでもヒントになるかもしれない』

 

そういう思いでブログを開設しました。

暑苦しいブログですが、温かく見守ってくれると幸いです。